014.イメージせよ!チャレンジせよ! 1/3
※2010年4月・学研教育出版社内にて
Profile
相根 澄(さがね・きよし)
1973年10月4日 京都府生まれ
元フットサル日本代表
NPO法人日本フットサル振興会 理事長
日本サッカー協会 フットサル委員会委員
日本サッカー協会 夢先生
2008年フットサルW-CUP フットサル日本代表テクニカルスタッフ
幼少期からサッカーに親しみ、小・中・高を通じて選手として活躍した後、
フットサルに転じ、日本人初のイタリア・セリエAプレーヤーとなる
2008年引退、現在に至る
>>NPO法人日本フットサル振興会
>>相根澄オフィシャルサイト
>>相根澄オフィシャルブログbyダイヤモンドブログ
伝えたくても伝えられないことがあると、 もどかしくてボールを蹴っていた
― 日本人初のプロ・フットサル選手として活躍、その後引退。協会を立ち上げるきっかけを教えてください
引退当時、私はチームの中でも体力的に上の方で、正直、「まだやれる」という実感がありました。 ところが、フットサルの認知度に目を向けると、全国的にはまだまだ。
歴史のあるスポーツやメジャーな競技なら、第一線を退いた後の仕事や生き方、
身の振り方は先人のお手本がありますが、フットサルは新しいスポーツで、それがなかったんです。
観られるスポーツとしての普及率が低くて、広める必要がある。
「フットサルの先行きが心配だ」と感じました。
続けようと思えば、現役を続けられましたが、
それは自分のこれからのためにも、フットサル界のこれからのためにもなりません。
フットサルを口で説明をするよりも、とにかく見てもらうのが一番だと考えて、
"体力のあるうちに"第一線から退くことを決めました。
引退してすぐ、フットサル選手として初めて日本サッカー協会のJFAアンバサダーに任命されて、
一人で全国各地を周って、一度に何百人、何千人の子どもたちを指導したんですが、
時間が短くて、一人なので、「伝えるには限界があるな」と感じました。
フットサル場は全国にありますが、行なわれている多くがミニサッカーです。
観ている方にとっては、似ているじゃないか、と思うかもしれませんが、
判断力やイマジネーションを楽しむことができますし、
これを経験することでサッカーにも活かすことができる。
それを伝える活動もしたいと思って『フットサル振興会』を立ち上げました。
― サッカーを始めるきっかけは?
サッカーのコーチをしている伯父の影響です。
保育園の頃、グラウンドへ連れて行かれて無理やりやらされたのが始まりです(笑)
地元のチームに入って、試合に出られるようになったのが小学校4年生だったんですが、
その頃はサッカーそのものが面白いというよりは、仲の良い友達と同じ空間を共有できる、
一緒にプレーができることが嬉しかったですね。
― どんな子どもだった?
やんちゃでした。通知表には常に「落ち着きがない」と書かれていまして(笑)
体を動かしたくてしかたがない、じっとしていられない質の子どもでした。
かけっこは学校でも1番、2番で速い方でしたが、他は普通でした。
何かをやって見せて、人目を引きたいタイプだったと思います。
授業中、校庭をふと見て、鉄棒が目に入ろうものなら、どう上って、
どんな風にぶら下がってと、無理な体勢なんかもイメージしながら、あれこれ考えていました。
サッカーを始めてからは、嫌なことがあるといつもボールを蹴りに行って、気を紛らわせていました。
例えば、友達とけんかをする、先生や親に叱られる。その度にボールに向かうんです。
頑固な性格ですから、伝えたくても伝えられないことがあると、
もどかしくてボールを蹴っていました。
「絶対有名になってやる」「結果を出してやる」って思いながら(笑)
父に認められたい、褒められたいという想いも常にありましたね。
残念ながら、父は僕がプロになる前に亡くなりましたが、
生前、病気で足が不自由だったので父の分も頑張りたいという気持ちも強かったと思います。
当時はJリーグ発足前で、お正月にやっている『高校サッカー』をテレビで観て
「あの場所に立ちたいな」と憧れていました。
活躍したいというより、「テレビに出たい」という想いも強かったかな(笑)
― 当時の実力は?
僕自身はごくごく普通の選手でした。所属していたチームも、さほど強くなくて。
中学校3年生になって、これでもか!という走力トレーニングをしまして、
一度だけですが、京都で一番になることが出来ました。
ようやく京都で一番になったと思ったら、高校に進んで一番でなくなるのが嫌で
サッカーをやめてしまうチームメートがいて残念でしたね。
トップに立った人、エリートと呼ばれる人ほど、壁に当たってしまうと、
あっさりとやめてしまうな、と思ったことを覚えています。
僕はエリートでも上手な方でもありませんでしたが、 とにかくボールを蹴ることを選び続けてプロになったんです。